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愛猫はポチの気ままに徒然紀行

SNSで書いた事を備忘録的に残しています

バケモノの子は何故バケモノの子である必要があったのか?

アニメ映画「バケモノの子」が地上波で放送されたのでネタバレも含みつつ個人的な考察を。

 

細田守監督は「サマーウォーズ」で家族をテーマに、「おおかみこどもの雨と雪」で母親と子供をテーマにした映画を作って来た。
バケモノの子」では父親と子供をテーマにした。

 

おおかみこどもの雨と雪」では狼男の子供というファンタジーを描いたが、この狼男の子供はニートであったり障害児であったり世間には知られたくない家庭の秘密を比喩していると思っている。
バケモノの子」では子供は人間だが父親的存在はバケモノとして描かれている。これは子供との接し方が分からない未熟な父親をバケモノで比喩している。

 

この「バケモノの子」の一番のテーマは「父親の成長」と「子供の成長」であり、その先にある「親子の繋がりとは何か?」という答えに結びついてくる。

 

劇中で主人公・九太の父親役の熊徹と、九太のライバルである猪王山が正反対のキャラとして描かれており、それは九太の口からも説明されているので割愛する。
同じように主人公・九太と猪王山の息子である一郎彦は正反対なポジションにあるこの両家が対比する形で話が描かれている。

 

バケモノに育てられて人間の子供同士である九太と一郎彦。
バケモノに育てられながらも人間として強くなりたいと願う九太と、バケモノに育てられて自分もバケモノだと信じて疑わないが何故自分がバケモノ(父親)のようになれないのか苦悩一郎彦。
当然それは猪王山が一郎彦に事実を教えなかったから苦しむ結果になったわけで、親が子供との接し方を結果的に誤ってしまったとも言える。一郎彦が誤った道に進んでしまったのは、猪王山が「お前はバケモノの子では無いけれど、私にとっては大切な息子だ」と言えなかった事だと思う。それは猪王山が一番現実に向き合えず現実に怯えていたからでもあり、一郎彦も自分はバケモノの子では無いと感じながらもその現実を受け入れようとする勇気が無かったから道を誤ってしまった。
逆に九太は熊徹が自分の父親で無いと理解しながらも父親としての役割を理解していたから現実と向き合い道を誤らなかった。

最後に九太は実の父親と暮らすことになるが、それでも熊徹はもう人の父親でもある事を受け入れている。そこには血の繋がりは関係ない。昨日Facebookで「親とは子供の有無で決まるものではなく、親の役割を果たせるかどうか」という記事を書いた。
このタイミングで意図的に書いたものだ。

 

人間関係とは役割の関係でもある。
誰が自分にとってどんな役割なのか?その繋がりが人間関係なのだ。

 

父親の成長」と「子供の成長」の先にある「親子の繋がりとは何か?」の答えは「どんな役割を果たしているか」だと思う。

 

九太とって実の父親も熊徹も父親としての役割を果たしてくれた人なのだ。一郎彦にとっては猪王山がこれから父親としての役割を果たすだろう。それによって一郎彦は本当の意味での猪王山の子供になるだろう。

 

最後に「ヒロインは不要だった」と言ったが、この作品は「父親と子供の関係性」を描いた映画だ。中心人物は九太と熊徹、一郎彦と猪王山で良かったのだ。無理にヒロインを入れる必要は無かったし、彼女は亡くなった母親を意味した分けでもはなく誰かの対比でも無かった。彼女の存在によって逆に本来のテーマを薄めてしまった感がある。大人の事情もあるのだろうけれど、個人的には残念な存在であった。