愛猫はポチの気ままに徒然紀行

SNSで書いた事を備忘録的に残しています

ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン

SMAPの大ヒット曲「世界で一つだけの花」は残酷な歌だと思う。

 

「ナンバーワンにならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン」という歌詞の共感してどれほどの人々が「無理に努力してナンバーワンにならなくてもいいんだ。自分は自分らしく、今のままでいいんだ、ありのままの自分でいいんだ」と思った事だろうか。

 

でも「自分らしく」「今のまま」でいる事はオンリーワンでは無いのだよね。
変わらないという事は無個性で星の数ほどの人混みに紛れ込んで周りから見付ける事すらできない一人でしかない。
何もしないのにオンリーワンにはなれない。何かをするからそれが個性になる。

 

世にいるナンバーワンになれなかったオンリーワンの人々。
この人たちはナンバーワンを目指して戦い相手を蹴散らしたけれどナンバーワンになれなかった人達だ。
ナンバーワンにはなれなかったけれど、戦ってきたから オンリーワンを手に入れられた。

 

オンリーワンは「自分らしく」でもなく「今のまま」でも無くナンバーワンと同じく戦って勝ち取ったものなんだ。
それを理解せず「僕はオンリーワンになれればいい」と何もせず自分らしく今のままでいる人達が、オンリーワンになる事は無い。
だから 「世界で一つだけの花」は残酷な歌だと思う。

バケモノの子は何故バケモノの子である必要があったのか?

アニメ映画「バケモノの子」が地上波で放送されたのでネタバレも含みつつ個人的な考察を。

 

細田守監督は「サマーウォーズ」で家族をテーマに、「おおかみこどもの雨と雪」で母親と子供をテーマにした映画を作って来た。
バケモノの子」では父親と子供をテーマにした。

 

おおかみこどもの雨と雪」では狼男の子供というファンタジーを描いたが、この狼男の子供はニートであったり障害児であったり世間には知られたくない家庭の秘密を比喩していると思っている。
バケモノの子」では子供は人間だが父親的存在はバケモノとして描かれている。これは子供との接し方が分からない未熟な父親をバケモノで比喩している。

 

この「バケモノの子」の一番のテーマは「父親の成長」と「子供の成長」であり、その先にある「親子の繋がりとは何か?」という答えに結びついてくる。

 

劇中で主人公・九太の父親役の熊徹と、九太のライバルである猪王山が正反対のキャラとして描かれており、それは九太の口からも説明されているので割愛する。
同じように主人公・九太と猪王山の息子である一郎彦は正反対なポジションにあるこの両家が対比する形で話が描かれている。

 

バケモノに育てられて人間の子供同士である九太と一郎彦。
バケモノに育てられながらも人間として強くなりたいと願う九太と、バケモノに育てられて自分もバケモノだと信じて疑わないが何故自分がバケモノ(父親)のようになれないのか苦悩一郎彦。
当然それは猪王山が一郎彦に事実を教えなかったから苦しむ結果になったわけで、親が子供との接し方を結果的に誤ってしまったとも言える。一郎彦が誤った道に進んでしまったのは、猪王山が「お前はバケモノの子では無いけれど、私にとっては大切な息子だ」と言えなかった事だと思う。それは猪王山が一番現実に向き合えず現実に怯えていたからでもあり、一郎彦も自分はバケモノの子では無いと感じながらもその現実を受け入れようとする勇気が無かったから道を誤ってしまった。
逆に九太は熊徹が自分の父親で無いと理解しながらも父親としての役割を理解していたから現実と向き合い道を誤らなかった。

最後に九太は実の父親と暮らすことになるが、それでも熊徹はもう人の父親でもある事を受け入れている。そこには血の繋がりは関係ない。昨日Facebookで「親とは子供の有無で決まるものではなく、親の役割を果たせるかどうか」という記事を書いた。
このタイミングで意図的に書いたものだ。

 

人間関係とは役割の関係でもある。
誰が自分にとってどんな役割なのか?その繋がりが人間関係なのだ。

 

父親の成長」と「子供の成長」の先にある「親子の繋がりとは何か?」の答えは「どんな役割を果たしているか」だと思う。

 

九太とって実の父親も熊徹も父親としての役割を果たしてくれた人なのだ。一郎彦にとっては猪王山がこれから父親としての役割を果たすだろう。それによって一郎彦は本当の意味での猪王山の子供になるだろう。

 

最後に「ヒロインは不要だった」と言ったが、この作品は「父親と子供の関係性」を描いた映画だ。中心人物は九太と熊徹、一郎彦と猪王山で良かったのだ。無理にヒロインを入れる必要は無かったし、彼女は亡くなった母親を意味した分けでもはなく誰かの対比でも無かった。彼女の存在によって逆に本来のテーマを薄めてしまった感がある。大人の事情もあるのだろうけれど、個人的には残念な存在であった。

ネットの中の人間関係なんて希薄だ

「ネットの中の人間関係なんて希薄だ」なんて事をSNSで言う人がある。
SNSから発せられたそのメッセージは希薄な人間しかいないというネット社会の誰に対して届けたいものなのか?この人おもしろい人だななんて思う愛猫はポチですが、こんにちは。

 

そもそも「希薄な人間関係」って何だろう?

 

それって結局自分が相手に求めている人間関係になっているかどうか?になっていたりしないだろうか。
すべての環境で同じ人間関係を求めても仕方が無いのにね。 世の中、リアルな人間関係があって、ネットでもリアルでも付き合いのある人間関係があって、ネットだけの付き合いで名前(またはハンドルネーム)しか知っている人間関係があって、名前も知らず会ったことも無いネットだけの人間関係がある。 名前も知らず会ったことも無いネットだけの人間関係であっても、それによって救われる事ってあると思うのですよね。
知らない人間同士だからこそ相談できて、 知らない人間同士だからこそ客観的なアドバイスができる。
ネットだけの付き合いで名前(またはハンドルネーム)しか知っている人間関係でも、その距離感だから楽しい事も多い。
リアルな人間関係だって必ずしも濃密な人間関係ができているとも限らず、妬まれたり、恨まれたりする事もある。 どの環境だって良い所があり悪い所もあるのだから自分に合った距離感で楽しめばいいのでは。
そんなガチガチに考え込まずにね。

多様化されたり、多様化されなかったり

世の中、遊び方も楽しみ方も好みも広がり価値観が多様化したと思う。ある意味個性が認められた社会になりつつあると言える。
自分は多様化が好きなので良い傾向だと思うけれど、一部の社会的価値観は多様化せずに一定のテンプレートに納められた生き方をしなければ「お前は世の中では通用しない」なんて言われたりする。

 

「いい大学を出ていい会社に入れば安定した生活が送れる」「いい会社に入るにはこういうスーツを着て面接ではこういう話をした方がいい」「大学ではサークル活動をしていた方がポイントが高い」と言われ続け(場合によっては個性を押し殺し)その通りにしたりする。

 

「こうであるべき論」が本当に多様化したと言われるのは疑問に思ったりして。
もちろんある一定水準を保つためにテンプレートが必要なのは理解しているけれど、テンプレート重視になってしまうとマニュアル人間が生まれて来てしまうのではと懸念していたりもします。

格差は自己責任?どれだけ頑張ったって貧乏のまま?

「格差は自己責任」という人がいて、本人がどう頑張っても格差の波に飲まれる事があるよね、なんて思っている自分は自己責任だなんて思っていなかったりして。
サブプライムリーマンショックの影響で会社が倒産して貧乏になるのも自己責任なの?

お金持ちの家に生まれてくれば人生勝ち組からスタートするから格差に困る事は無いけれど、貧乏な家に生まれたら人生負け組からスタートするので格差に打ちのめされる毎日。じゃあ、お金持ちの家に生まれてこれなかったのも自己責任なの?

 

「格差は自己責任」だと言う人は何となくいじめっ子の理論に似ていると思う。
「お前はバカだから勉強しても無駄」「お前は運動音痴だからじっとしていろ」「お前は才能無いのだから習い事なんて辞めちまえ」
そう言って相手のやる気を削ぎ無気力にする。
理由は自分より下の人間がいる事で安心できるから。自分の自尊心を守れるから。
だから努力して自分を追い抜こうとする人間を叩いて落としたいだけ。
抜かれたら自分が惨めになるから。
徹底的に叩き落としたいだけ。

 

「格差は自己責任」「これ以上努力しても無駄」「お前はどれだけ頑張ったって貧乏なんだよ」「俺はそっちの人間じゃないからね」と言って自分より下の人間を作りたいだけ。そんな人間の言葉を真に受けてはいけない。

 

本人のチカラではどうにもならなかった事を批判したり笑ったりする人間の言葉を聞いてはいけない。