愛猫はポチの気ままに徒然紀行

SNSで書いた事を備忘録的に残しています

感動ポルノは誰を救う?

感動ポルノ番組の悪い所は障害者に健常者と同じ様に頑張れ、頑張ったら感動してあげるよというスタイルで健常者が例えばみんなで手話を覚えようとか障害者を理解する努力をしない所なんだよね。結局障害者を見世物にしているだけ。

 

感動ポルノ番組を39年間続けても障害者に優しい社会にならないのは障害者に努力させてるだけだから。本当に努力して理解しないといけないのは健常者の方。それを伝えない限り優しい社会にはならない。

 

盲目先生が26年ぶりに生徒に出会えた事は素晴らしい企画で良かったと思う。でも24時間テレビの企画が無ければ会う事は無かったのかなと思うと少し寂しいような。そして「愛は地球を救う」と謳いながら24時間テレビで39年間こういう活動を続けながらもそれほど愛は番組を通じて広がってはいないのかな。地球を救うまで行かないにしても人の心を救うのも大変な事なんだなと感じる。

被害者が脅されて、責められて、我慢させられて、泣き寝入りさせられる世の中なんて異常だよ

性犯罪が起きると被害者が加害者のように祭り上げられたりするよね。

 

「女性の方が誘ったのでは?」
「期待させる格好をしていたのでは?」
「そんなに大騒ぎしたら可哀想だよ」
「裁判になったら相手の人生が狂うよ?」
「ニュースになったのだから社会的制裁を受けている」
「普段は真面目な人間なのに」
「将来有望な人間なのに」

 

だから何なのだろう。
加害者が可哀想だから被害者は我慢しろと言うのか。
加害者が真面目な人だから被害者は我慢しろと言うのか。
加害者が社会的制裁を受けたから被害者は我慢しろと言うのか。
こんな事をする人間のどこが将来有望なのだろうか。

 

マスコミは「こんな事をしても被害者が二次被害を受けて辛くなるだけ」と言う。被害者を辛くしているのはあなた達じゃないか。「被害者であるあなたが辛いだけですよ」と脅しているだけじゃないか。
そうやってみんなで被害者を脅して、責めて、我慢させて、泣き寝入りさせて、なんで「被害を受けた私にも問題があった」かのように加害者へと仕立て上げているのだろう。被害者が脅されて、責められて、我慢させられて、泣き寝入りさせられる世の中なんて異常だよ。

「配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ」

ルーシー「Sometimes I wonder you can stand being just a dog ….」
(時々、わたしはどうしてあなたが犬なんかでいられるのか不思議に思うわ。)

スヌーピー「You play with the cards you’re dealt …whatever that means.」
(配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ。)

 

スヌーピーの有名な言葉だ。
人生はある種カードゲームのようでもあり、持ち札は【学歴】というカードであったり、【財力】というカードであったり、【個性】というカードでもあり、それら全てがあなたという人間を表すカードである。
カードの枚数の多さやレアカードの有無で人生の難易度は変化し、受験戦争や出世街道や恋愛競争だけに限らず身近な人間関係においてもどのカードを持っているかでヒエラルキーが決まる。

 

もちろん【高学歴】【高収入】といった誰もが羨むカードや、【コミュニケーション能力】といったSSレアなカードを持っていればどんな相手でも立ち向かえるだろう。でも本当に必要なのは少ない平凡なカードでも工夫して戦える能力、大富豪で大貧民になってもおかしくないようなカードでも大富豪たちと互角に戦えるような立ち回りができる能力なのだと思う。【勇気】や【意思の強さ】や【行動力】のカードだけが大切じゃない、【野心】や【嫉妬】や【逃げる】というカードだって生きるために必要なカードだ。それらのカードを使ってどう生きていくかだ。

 

「配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ」

今さらながら酒鬼薔薇聖斗の「絶歌」に思うこと

酒鬼薔薇聖斗の手記「絶歌」が発売されて1年以上が経過した。
自分は「絶歌」を買ってもいないし読んでもいない。正確にはあとがきだけネットの記事で読んだ。
みんな話題にしなくなったので思った事を徒然と。

 

あとがき冒頭に「どのようなご批判も、甘んじて受ける覚悟です」と書かれている。
少年法に守られて、顔も名前も住所も隠された何があっても矢面に出る事の無い人間が「どのようなご批判も、甘んじて受ける覚悟」が出来るのであろうか?というのが最初の疑問。どんなに世間が騒ごうと自分は守られているという自覚を持って書いていると推察する。

 

この本を書いた理由は「人並みに社会の矛盾にもぶつかり、理不尽な目にも遭い、悔しい思いもし、そのたびに打ちひしがれ、落ち込み、何もかもが嫌になってしまったこともありました」「僕には、罪を背負いながら、毎日人と顔を合わせ、関わりを持ち、それでもちゃんと自分を見失うことがなく、心のバランスを保ち、社会の中で人並みに生活していくことができませんでした」から。だから「もうこの本を書く以外に、この社会の中で、罪を背負って生きられる居場所を、僕はとうとう見つけることができませんでした」と言う。少年Aは社会人であればごく普通に体験しているであろう社会の荒波の中で人並みに生活していくことが出来なかった。だからこの本を書くのだと言う。

言い換えれば「面倒くさい人間関係が嫌で働きたくないから本を売って印税で生活がしたい」と自分本位な事を言っている。
また、あとがきには「本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにいられませんでした」 「「辛い」、「苦しい」と口にすることは、僕には許されないと思います。でもぼくはそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい」と書かれており、自分はこの言葉が非常に引っ掛かって仕方が無い。

 

「本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにいられませんでした」。
僕はみんなを傷つけ苦しめてでも自己欲求を満たしたかったと言っている。

 

「「辛い」、「苦しい」と口にすることは、僕には許されないと思います。でもぼくはそれに耐えられなくなってしまいました。自分の言葉で、自分の想いを語りたい」
周りは僕の事を許さないだろうけど、僕は自分のやりたい事を我慢する事が出来ないと言っている。

 

つまり、あまりにも自分本位で自分の欲求を満たすためであれば他人を傷つけても構わないと思っている。自分の自己顕示欲を満たすためであればどんな事でもする。これは19年前の神戸連続児童殺傷事件の時と何ら変わらない精神状態だと強く感じている。
関東地方更生保護委員会は当時「再犯の可能性はないと判断した。保護観察に付することが改善更生と円滑な社会復帰のために相当と認めた」と説明しているが彼の本質は変わっていない。もちろん19年間何も起こしていないのであれば更生は成功していると言えるが、願わくばこのまま何も起こすこと無く自己欲求と自己顕示欲を我慢して他人を傷つけたりしない人生を送って貰いたいと切に思う。