愛猫はポチの気ままに徒然紀行

SNSで書いた事を備忘録的に残しています

「うつ病は甘えだ」だと決めつける甘い考え

自分は「新型うつ」の影響で本当にうつ病で苦しむ人が「うつ病は甘えだ」などと言われて更に迫害を受けるようになったと憤慨している。うつ病患者の人は何も出来ない事に苦しみ申し訳なく思い日々そんな自分が嫌で自分自身を責めているのに。

 

そもそも「新型うつ」なんて言葉は病名でも診断名でもなく2007年頃からメディアで広がった造語でしかない(精神科医香山リカ氏が書籍で用いたのが最初だと言われている)。そして新型うつという言葉は日本でしか使われておらず、日本精神神経学会でも公式に「新型うつ病という用語はありません」と発表されている。それなのに「新型うつの人は仕事中は落ち込んで何も出来ないけれど仕事が終わると元気に遊びに行く」などとメディアが広めたためにうつ病患者も同じだと勘違いされるようになった(記憶が曖昧だけど朝青龍うつ病だと報じられてその後遊んでいる姿がスクープされた時にうつ病は甘えの病気だと叩かれていたと思う)。

 

うつ病は自責的で動けず何も出来ない自分を責めて「自分なんていない方がいい」「迷惑掛けるなら死んだ方がいい」と思いがちで(うつ病患者に自殺の傾向があるのはこの感情がどんどん高まってしまうからだと思う)、反対に新型うつは他罰的で自分が大変なのは周りのせいだと愚痴を言ったりする傾向がある。症状として異なるものを「うつ病」にカテゴライズされてしまったがために様々な誤解を生じている。
何も出来ないなりに何とかしようと頑張って、それを「甘えだ」「もっと頑張れ」と罵られ、自責の念に駆られて命を絶ったうつ病患者もいただろう。

 

だから自分は「新型うつ」という言葉は変えるべきだと思う。
少なくとも「うつ」という言葉を入れてはいけない。

 

「新型うつ」という言葉が生まれて間もなく10年を迎えようとしているがうつ病への理解が変わらない世の中への警鐘として。

誰かの意見を聞くには、自分の意見を話すしかない

自分はSNSで基本「おはようございます!今日もよろしくお願いします!」とは書かない。書いてる時は何か実験している時だと思って欲しい。
理由としては、自分はSNSを意見を不特定多数に発信するメディア、それに対する不特定多数からの意見を受信するメディア、不特定多数が発信している意見を閲覧するメディアとして使っているから。基本的に人の考えている事を知るのが楽しい。ニュースや映画などの考察とか聞くと面白くて仕方が無い。それが正しいかどうかは関係なくて、そういう考え方もあるんだとかそういう視点もあるんだとか楽しむのが好き。(良し悪しは別にして)ホリエモン爆笑問題太田の考え方も斬新で面白いから好き。逆に親しい相手や目上の相手には擦り寄る芸能界のご意見番とか言われる人の意見はつまらない。

時々意見が分かれそうな話題を持って来るのはいろんな人の意見を聞きたいから。当然意見の中には自分と同じ意見もいれば正反対な意見の人もいる。でもそれでいいと思うのだよね。自分の考えが正しいなんて思うのも傲慢だし、他の意見も聞いて微調整する事も大事だと思うから。だから反対意見に対して「それは間違っている!」「自分の意見の方が正しい!」なんて言わないし「あなたは間違っている!」と訴えてくる人をブロックしたりもしない。そして反対意見や反対の立場の人も友達申請やフォローをする。いろんな意見を聞きたいから。

 

「おはようございます!今日もよろしくお願いします!」と書くと皆さんから朝の挨拶をされるけれど、そこから何かの意見には発展しないのだよね。結局終始挨拶だけで終わってしまう。それが自分の中ではつまらなかったりして、承認欲求は満たされないのですよね。みんながどう思っているのかが知りたいけれど、挨拶ではその話には繋がらないから。

 

同じようにネットの記事をシェアだけしている人も自分の中では意見に繋がらないのでつまらなかったりする(やってる人ごめんなさい)。「この人はこの記事に対してどう思ったのか?」「記事に対して賛成なのか反対なのか?」「自分だったらどうしたいのか?」を自分は知りたい。

 

そしてみんなの意見を聞くためには自分が意見を述べないと始まらない。
それが頓珍漢な意見であろうと、批判される意見であろうと、自分なりに考えて自分が出した答えを述べないと何も始まらない。


ジュリアス・シーザーユリウス・カエサルの言葉で「人間は自分が信じたいことを喜んで信じるものだ」というものがある。心理学で言う確証バイアスと呼ばれるもので大半の人間に共通する心理。でも信じたいことを喜んで信じているだけでは新しい事実は見えて来ないのだよね。単に騙されているだけかもしれない。利用されているだけかもしれない。だから自分の意見を作り上げるために信じたいこと以外の情報を得るアンテナを自ら伸ばさないといけない。

差別を無くすには

娘のクラスメイトに障害児の子が居て、授業参観に行くとその子がクラスメイトに話しかけると無視されたり、親が引き離しに来たりして、あからさまに嫌われるのだなと思った。 娘は普通にその子と接していて、その子をどう思う?と聞いても何でそんな質問をするのか分からない様子でおそらくその子を障害児だとすら思っていない印象だった。

 

それを見て「差別って認識するから差別なんだ。それが普通、何も変わらないと思っていれば差別とも感じないんだ」と思った。あの子は障害児で私は健常者だという考え方をするから差別なんだ。相手が自分と違っていてもそれが当たり前で、その事は遊んだり話たりする上ではなんら障害でも無いわけで、娘としては相手が障害児であっても他の子と一緒で同じ遊び相手には変わらないのだよね。

 

娘と障害児の子には感謝していて、 凄くいろんな事を学ばさせられたと思う。 近年自分は「多様性を認める」という事をテーマにしているのだけど、2人を見ていて「違いがあるのが当たり前でそんなの普通の事」と思えれば差別は無くなるのだろうなと感じたから。だから「多様性を認める」事をSNSで書いている。

 

2人の行動が差別を無くす事に繋がればと思って。

お前、空気読めよ

近年KYだなんて言われる「空気を読め」と言う見えないプレッシャー。
空気だから見えないのは当たり前か?

健全なコミュニケーションを取るためには「空気を読む」事は重要だ。
重要だからこそみんな頑張って「空気を読む」。
それでも「お前、空気読めよ」「空気読めないヤツだな」なんて言われる事もあるだろう。

「お前、空気読めよ」「空気読めないヤツだな」と言う人の心理は2つあり、1つ目はその会話の中で全く関係ない話をしだしたり、人が話している最中に割り込んできたりする人に対してその忌まわしき会話の流れを指摘する場合。2つ目は自分の思い通りの行動をしてくれなかった人を悪者にするために使う場合。
「空気を読め」という言葉は実に便利な言葉で、「空気を読めよ」と指摘する事で相手の会話をストップさせ悪者にする事が出来る。自分の嫌いな「察しろ」という言葉と同じ意味合いの言葉とも言える。

 

もちろんコミュニティにおいて健全なコミュニケーションを執り行う上でも「空気を読む」事は大事だから、大抵の人は空気を読みながら話をしたりする。でも「空気の読めない奴」だと思われるのが嫌だから 「空気を読む」事だけに注力してしまうと、空気は読むけれど相手の心は読めていなかったりしてやはり「お前、空気読めよ」「空気の読めないヤツだな」なんて言われる事もある。

 

そうなると「空気を読むって何???もう僕には分からないよ!」って状態になって人とのコミュニケーション自体取りたくなくなりその場から逃げ出したくなる人も出てくるだろう。もはや「自分探し」ならぬ「空気探し」になってしまい自分すら探せていないのに空気なんて探せないよ!嘆くだろう。

 

健全なコミュニケーションのために「空気を読め」と相手に指摘する事は本当に健全なコミュニケーションになるのだろうか?
「お前、空気読めよ」「空気読めないヤツだな」と指摘するぐらいなら「今はそんな話をしていない」「この話について聞いているのだけど、どう思う?」と具体的に指摘した方が健全だと思うけれど。


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一般的に「空気読めよ」と言われる方が非常識な人間が多いと思われる傾向の反対側からのアプローチで書いてみました。

 

例えば何かの集まりで「被災地に千羽鶴贈ろうぜ!」と誰かが言い出し「千羽鶴は意味が無いから僕は辞めておくよ」と返したら「お前空気読めないヤツだな」と言われる事があります。


これって本当に空気が読めないの?という疑問からの上記のトピックスでした。

自分に出来る失敗しない事をするのが成功のもと

プライドが高くて傷付きやすい人間が増えていて、周りを困らせる事が多い。プライドが高いからこそ周りに自分が出来る人間だと思われたいし、傷付きやすいからこそ失敗して出来ない人間だと思われるのが怖い。

 

だからこういう人間は「自分に出来る失敗しない事」しか取り組もうとしない。
自分のしたことが無い事や、新しい事、答えや結果が明確では無い事をして失敗をしたらプライドが傷付くし、自分の評価が下がると思っているから。だからなるべくそういう事は避けて生きようとする。 仮に新しい事を始めたとしても、他の(自分と同等かそれ以下の存在だと思っている)人間に出来る事しかやらない。あの人間に出来るのなら自分にも出来るだろうと思っているから。

 

でも 「自分に出来る失敗しない事」しかやらないっていう事は、それは全く成長していないって事なのだよね。


人間は常に新しい事を覚えて、新しい事を挑戦して、新しい環境に飛び込んで、多くの失敗をし、その失敗を次に活かす事で成長していくものだから。新しい事をして失敗するぐらいなら最初から何もせず自分に出来る失敗しない事しかやらないというのは自分の成長を諦めていると言えるのだけどそこには気付いていない。
また、プライドが高いため「自分に出来る失敗しない事」をしている自分も凄いと思い込んでいて、そこに周りとのギャップが生まれる。

 

その結果、本人は「自分はこれだけやっているのに周りが認めてくれない」と思い、周りは「簡単な事しかしていないのに凄く出来るアピールをしてくる」と煙たがる。本人に「それではダメだ」と言っても心には響かない。本人は自分が凄い人間だと思っているし、自分に忠告してくる人間は自分の敵だと思っているし、傷付きたく無いから否定的な言葉は聞こうともしない。それが的確なアドバイスだとしても。

 

解決策は難しく、周りとの摩擦を避けるために人目に付かないポジションで決まった事(その人に出来る失敗しない事)をさせるのが良いのだが、プレイドが高く周りから評価されたい人間なので人目につかない場所に置かれる事に不満に思う。それでも周りと距離を置かないとその人の自尊心の代わりに周りの不満が爆発するから。